2016年4月24日日曜日

2016年04月24日 第4主日礼拝 頭の上に手を置く

招詞
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」                                  ヨハネの 福音書3章3節
                  
聖書箇所
レビ記 1章1~17節

説教
頭の上に手を置く 老松望KGK主事
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ56/「イエスの友人 ニコデモ 」
ニコデモは、律法の先生です。「イエスの行なったしるしを見て」、夜、こっそりイエスのもとを訪れました。ニコデモは、イエスが神のもとから来られた教師であることを知り、認めたのですが、それだけでは足りないのだとイエスから突き放されます。それは、「人は、新しく生まれなければ 神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3章3節)でした。救いには、イエスを信じて、魂の生まれ変わりを経験することが必要です。ニコデモは、ここでの時点ではまだ友情は成立していなくて、ただ混乱しています。しかし、彼は、深く考える人で、また謙遜でした。
 ヨハネの福音書にはニコデモがイエスとの友情を結んだことがはっきりとわかる証が二つ記されています。ひとつはイエスを弁護したこと(7章)、もうひとつはイエスが十字架で死なれた後に墓に埋葬したことです(19章)。特に7章では、役人たちと、他のパリサイ派の仲間の前でイエスを弁護していますから、それ以来、白い眼で見られたはずです。私たちも、「イエスは、神の子キリストです。信じなければ救われません」、とクリスチャンでない友人たちに明言で きるでしょうか?              (銘形「イエスの友」より一部引照)

2016年4月17日日曜日

2016年04月17日 第3主日礼拝 あなたの目は開いていますか?

招詞
人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。                          詩篇8篇 4~5節  
聖書箇所
ヨハネの福音書 9章1~4節&24~41節

説教
あなたの目は開いていますか? 菅孝雄兄

言(こと)ローグ55/「イエスの弟子と友2」ナタナエル
「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 (ヨハネ1:49)。ナタナエルは、初対面のイエスさまと2、3会話を交わした後で、この信仰告白をしています。会話の主体は、「見た、聞いた」でしたが、それで十分でした。クリスチャンとなった人は、自分が生まれながらにして罪人であり、霊的に盲人だったことを知った人です。目が開かれるためには、光が必要です。しかもその光は「まことの光」でなればなりません。上からの、天からの強烈な光でなければなりません。ナタナエルは、聖書の先生でしたが、謙遜な人でもありましたので、このプロセスをクリアして、イエスさまを神の子救い主と信じ、イエスさまの友となりました。私たちも、目が開かれ、「まことの光」であるイエスさまに出会った者たちですね。                                                  ( 銘形「主との友情を育む」より一部引用)

2016年4月10日日曜日

2016年04月10日 第2主日礼拝 歴史の中のすべての人にとって一番大事なこと

招詞
その義にふさわしく、【主】を、私はほめたたえよう。
いと高き方、【主】の御名をほめ歌おう。                                詩篇7篇17節
                    
聖書箇所
伝道者の書3章 11節
使徒の働き17章27節

説教
歴史の中のすべての人にとって一番大事なこと ジョン・ロビソン宣教師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ53/「イエスの弟子と友1 アンデレとヨハネ 」
バプテスマのヨハネがふたりの弟子とともに立っていると、イエスが歩いて行かれるのを見ました。そしてすかさず叫びました。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)バプテスマのヨハネのこのことばに驚きと興味を示したふたりの弟子が、イエスについて行きます。一人は、アンデレで、もう一人は、後に、この福音書を記したヨハネ自身です。彼らは、イエスに尋ねます。「先生、今どこにお泊りですか。」イエスの答えは、「来なさい。そうすればわかります。」 短いやり取りですが、「来なさい」というイエスの招きのことばが、アンデレとヨハネの一生に決定的な方向づけをすることになりました。2人はイエスの弟子になり、しもべとして従いました。寝食をともにして3年目のある日、「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。わたしは、(今)あなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたが たに知らせたからです。」(ヨハネ15:5)アンデレとヨハネにとって、2度目の大きな驚きです。私たちも、福音書のイエスの言葉を読んでいて、自分に語られているように感じる、新鮮で嬉しい驚きを経験することがあるでしょうか?                                            ( 銘形「主との友情を育む」より一部引用)

2016年4月3日日曜日

2016年04月03日 第1主日礼拝 祈りの学校

招詞
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」                                                        マタイの福音書7章7~8節
                    
聖書箇所
ルカの福音書 11章1~13節

説教
祈りの学校 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ52/「あくまでも頼み続ける」
「彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」(ルカ11:8)
 「アナイデイア」は、一語で「あくまでも頼み続ける」の意味です。それは、「厚かましさ、無恥、厚顔、図々しく、恥も外聞もなく」といった意味で、それほどに執拗であったがゆえに願いが聞かれたということが強調されています。それゆえ、この「たとえ話」の後に、イエスは「求めなさい(厳密には、「求め続けなさい」)。そうすれば、(必ず)与えられますと約束しています。捜し続ける、たたき続ける、そうするなら、必ず、与えられるのです。しかも、それによって得るものは最も良いもの、すなわち、「聖霊」を父は与えて下さると語っています。「聖霊」が与えられ、関与されることで、私たちに最も必要な霊的な糧が得られるからです。「聖霊が与えられること」と、「必要不可欠な霊的な糧が与えられること」とは同義なのです。私たちは、どれほど厚かましく祈り願っているでしょうか?                      (「ルカの福音書を味わう:銘形」より引用)