2015年11月29日日曜日

2015年11月29日 第5主日礼拝 回復の希望イエス・キリスト

招詞
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。                                         マタイの福音書 1章21節

聖書箇所
マタイの福音書 1章1節~17節

説教
回復の希望イエス・キリスト  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ35/「しるし」と「象徴」1
聖書では、あることを伝達するための手段として「しるし」や「象徴」を用いています。前者の例としては、預言者イザヤが、「主みずから、あなたが たに一つのしるしを与えられる」と述べ、処女が身ごもって男の子を産んだなら、それが「インマヌエル」(神がともにおられる)のしるしだと語ります(イザヤ7章14節)。そしてそれが成就します(マタイ1章18~25節)。他にも、御使が 喜びの知らせを伝えるために羊飼いたちのところに現われて言います。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これがあなたがたのためのしるしです。」(ルカ2章11節) 
    野球で監督やコーチが選手にある指示を伝達するときにサインを送ります。同様に、神も私たちにサインを送るのです。「処女が身ごもって男の子を産む」ような出来事が起ったなら、あるいは、布にくるまって飼葉おけに寝ているみどりごを見たなら、それが神が遣わした救い主なのだという「しるし」、つまり「サイン」だということです。神のこの祝福のサインも、イエスさまの時代の指導者たちは見逃しただけでなく、妬みから十字架にかけてしまいました。妬みが、彼らを霊的盲目にしました。私たちは、この時期、2000年前の神さまからの「サイン」を正しく受け止めた幸いな者として過ごさせていただきましょう。                                                               (銘形「アドベントの瞑想」より引用)

2015年11月22日日曜日

2015年11月22日 第4主日礼拝 2人の女性の癒し

招詞
は【主】に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。     詩篇91篇2節

聖書箇所
ルカの福音書 8章40~56節

説教
2人の女性の癒し  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ34/「信じ続けなさい」か、「今、信じなさい」か
  イエスさまは、ルカ8章50節で、「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」と、ヤイロの使いに申し送りました。ヤイロはイエスさまの期待に応えて、ただ信じて待ったでしょうか? 新約聖書は、ギリシャ語から訳されていますが、原典を忠実に書き写した写本をもとに翻訳しています。新改訳聖書は、共同訳と同じく、ネストレ27版というギリシャ語聖書の翻訳です。27版以前のこの部分の写本は、「恐れないで、ただ信じ続けなさい(現在命令形)。そうすれば、娘は直ります(救われます)。」となっていましたが、ネストレ27版では、「信じ続けなさい」が、「信じなさい(アオリストの命令形)」に変わりました。アオリスト形(不定過去形)で書かれた写本を採用したわけです。つまり、「はっきりと自分の明確な意志をもって『信じる』」ということが強調されています。そうすれば必ず救われるのだ、とイエスは語っています。が、何を信じるのでしょうか? 世界の多くの言語では、「信じる」は、「信頼する」とほぼ同義語ですがギリシャ語もそうです。「私、イエスを信じ、ただ信頼しなさい」と主はおっしゃったのです。医者のルカは、神のご聖霊に導かれて「ルカの福音書」と「使徒の働き」を手紙の形に書き留めました。その資料はぼう大緻密(ちみつ)で、恐らくガリラヤのカペナウムまで行って、このエピソードから20年後のヤイロと娘さんにも直接会ってインタビューしたかもしれないと想像します。ローマ市民であったルカは、パウロと同行していない期間もかなりありますから、その間にガリラヤを訪ね、イエスさまの言行録の主な舞台となった町々を訪ねたのではないかと思います。あの12年間、婦人病で苦しんだ女性も40代以上になっていたでしょうが、果たして会って、弟子たちの証言を確認できたでしょうか。想像するだけでも楽しいことですね。                                                                   (銘形「ルカの福音書を味わう」から一部引用)

2015年11月15日日曜日

2015年11月15日 第3主日礼拝 悪霊からの解放

招詞
【主】の栄光が、とこしえにありますように。【主】がそのみわざを喜ばれますように。私は生きているかぎり、【主】に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。
                                                    詩篇104篇31,33節
聖書箇所
ルカの福音書 8章26-39節
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説教
悪霊からの解放  田口勇新牧師

言(こと)ローグ33/「捕えた」と「出て行った」
ルカの福音書8章の2つの動詞に注目します。「捕えた(29節)」と「出て行った(38節)」です。新改訳では、原文の通りに「捕えた」となっています(新共同訳は、悪魔に捕えられた、と受動態)が、38節のほうは、「悪霊を追い出された人」と受動態のように訳されています。能動態が受動態に訳されると、哀れな人にだけ焦点がいってしまい、悪霊たちの力と邪悪さが薄められてしまうと思います。レギオン(軍隊用語で6千の部隊)と呼ばれた悪霊どもは、容赦なしの悪役で、圧倒的な暗闇の力でこの哀れな男の人を捕えてしまっていたのです。誰もかわいそうだと同情する人がいなかったのです。何と暗いことでしょうか。しかし、イエスさまは、彼に同情し、まっさきに加害者である悪霊たちに向かって「この人から出て行け」と命じたのです。
  悪霊たちは、イエスさまに命じられた通り、この人から「出て行ったのです」。原文通り「悪霊が出て行った人」というのは訳しにくさからでしょうか、新改訳では、「悪霊を追い出された人」と人に焦点が移っています。悪霊の恐ろしさ、イエスさまと渡り合う狡猾さ、まさに軍隊のように一体となって出て行くすばしこさを見逃してはならないでしょう。悪霊たちが豚に乗り移ることをイエスに願ったのは、底知れない滅びの闇に落とされることを恐れたからでした。当時の自然科学者であった医者のルカが悪霊の狡猾さをダイナミックに能動態で記術したことには意味があったわけです。現代でも、手を変え、品を変えて悪霊たちの働きが続いています。インターネットは悪いものではありませんが、批判力の乏しい10代の子どもたちを悪霊の世界に引きずり込み「捕える」サイトも多いので、親も教会も監視していく必要があります。

2015年11月8日日曜日

2015年11月08日 第2主日礼拝 あなたの信仰はどこに

招詞
福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。                        ローマ人への手紙1章17節


聖書箇所
ルカの福音書 8章22-25節

説教
あなたの信仰はどこに  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ32/「ぐっすり眠った」(アフプノーセン)
ルカ8:23で、舟のとも(船尾)に行くとそこで「イエスはぐっすり眠ってしまわれた」と記されています。このアフプノーセンは、強調を表わす接頭語の「アポ」と眠る(アプノー)の合成語で、眠り込む、寝入る、ぐっすり眠るという意味です。さて、場面が急転して、突然襲った嵐で大波が襲い、イエスさまと弟子たちの乗った舟が大きく揺れて沈 みそうになりますから、プロの漁師だったペテロたちも必死で舟を操ります。ガリラヤ湖周辺の山から吹き下ろす冷たい風が突風として発達し、舟を転 覆させるほどの嵐になるそうです。ここで、対照的なのは、イエスさまです。穏やかな湖なら誰でも気持ちよく眠れたでしょうが、小さな舟はギシギシ 音をたてて、波にもまれていますから、眠れるような状況ではありません。しかし、弟子たちが、起こすまでイエスさまは寝ておられました。クライマックスは、起きあがったイエスさまが、風と波に「静まれ」と命じたときに湖は「なぎ」になったということでした。恐れから解放された弟子たちの反応は、大いに驚き、イエスのみ力をほめることでした。しかし、イエスさまは、嵐の中でも父なる神さまの守りに信頼してぐっすり眠っておられたことに、もっと驚いて欲しかったようです。「あなたがたの信仰はどこにあるのです」は、弟子たちを叱った修辞疑問形でした。                            (銘形:「ルカの福音書を味わう」から一部引用)

2015年11月1日日曜日

2015年11月01日 第1主日礼拝 弟子たちの特権

招詞
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
                                              ピリピ人への手紙 4章4~5節


聖書箇所
ルカの福音書 8章16-21節

説教
弟子たちの特権  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ31/「父よ」と呼ぶ新しさ
マタイ6:9~13で、イエスが、弟子たちに「主の祈り」を教え、祈りのお手本とされました。当教会でも、信仰告白に続き、毎週唱和しています。 弟子たちはイエスが多忙で疲れていても、朝早く起きて、だれからも邪魔されることのない時間に、ひとり静かに祈っている姿をずっと見てきました。 弟子たちの心の中にそんな祈りを自分たちもしてみたいと思うようになるのは当然のことです。そして「主よ。私たちにも祈りを教えてください。」と願ったの です。その主の祈りの冒頭が、「父よ」でした。イエスは神について語るとき、あるいは、神に向かって語るとき、決まって「父」、「天の父」、「天におられる父」と呼んでいます。これはイエス専用の独自な呼び方でした。マタイの山上の説教(5~7章)だけでも、神を父として呼んでいる箇所は17回にも及びます。旧約聖書では神を「父」と記してい る箇所は わすか4カ所です(申命記32:6、詩篇68:5、89:26)。ですから、旧約聖書しか知らなかった弟子たちにとって、「父よ」は、とても新鮮な呼びかけでした。イエスが十字架にかけられた主な理由は、「自分を神と等しくして、神を父と呼んでおられたからである」と記されています(ヨハネ 5:18)。「父よ」は、それだけ重い意味を持っています。「自分を神と等しくして」という意味は、神を父と呼び、自分を子と呼んだということです。私たちが、「天にいます私たちの父よ」と唱える時、父なる天地創造の神さまと、ひとり子であられるイエスさまを告白していることになります。
                    (銘形:「詩篇の瞑想」から一部引用)